(1)時代は、貴族から武士への激動期


 大学受験の丸暗記なら、「鎌倉初期の高僧で歴史書『愚管抄』を書いた」だけOKです。慈円(1155~1225)には、特段、面白いエピソードがあるわけではなく、小説・漫画の主人公には不適格です。しかし、権力中枢の近くにいましたから、いわば「脇役」としてはチラチラ登場します。


 慈円の生きた時代は、源平合戦、承久の乱という、貴族政治から武家政治の転換期です。それで、とりあえず、主な事件と主な慈円の経歴を並べてみます。


1155年、誕生。

1167年、出家(13歳)。

1180年(26歳)、源頼朝が挙兵。

1183年(29歳)、平氏が安徳天皇(第81代、在位1180~1185)を伴い西国へ。後鳥羽天皇即位(82代、在位1183~1198)。日本史上、初めての2人天皇。

1185年(31歳)、壇ノ浦にて平氏滅亡。

1190年(36歳)、藤原任子入内、藤原任子は、慈円の同母兄・藤原兼実の娘である。同年、源頼朝上洛。

1192年(38歳)、天台座主就任。天台座主とは、天台宗総本山比叡山延暦寺の最高位。慈円は天台座主に4回就任。

1196年(42歳)「建久7年の政変」……兼実失脚、慈円天台座主辞任、任子宮中から退出。

1219年(65歳)、源氏3代将軍・源実朝暗殺される。4代将軍予定者として、2歳の三寅(後の藤原頼経)が鎌倉に迎えられる。

1220年(66歳)、『愚管抄』を書き始める。『愚管抄』の成立は、「承久の変」の前か後かは説が分かれていた。最近では、直前には書き終えていて、変後に若干の修正があったのではないか、と言われている。

1221年(67歳)、5月承久の変

1225年(71歳)、逝去。


(2)摂関家藤原氏の名門出身


 藤原北家の本流、すなわち摂関家は、藤原道長(みちなが)→頼通(よりみち)→師実(もろざね)→師通(もろみち)→忠実(ただざね)→忠通(ただみち)と続く。名門中の名門である摂関家の藤原忠通の子(11男)が慈円である。


 慈円の意識は、自分が摂関家本流にある、という単なる名門意識のレベルではない。


 予備知識として、天照大神の天岩戸への閉じ籠り事件について。以下は『日本書紀』本文の要約です。


 思金神(オモイ・ノ・カネ・ノ・カミ)が策を考えた。その策とは祭である。

 長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かせました。

 手力雄神(タヂカラ・ノ・オカミ)を岩戸の前に立たせた。

 中臣連(ナカトミ・ノ・ムラジ)の遠い祖先の天児屋命(アマノ・コヤネ・ノ・ミコト)と忌部(いむべ)の遠い祖先の太玉命(フトダマ・ノ・ミコト)が、榊の上の枝に勾玉を連ねたものをかけ、中ほどには鏡をかけ、下の枝には青と白の布をかけた。そして、天照大神が岩戸から出てくることを祈った。

 一方、猿女君(さるめ・の・きみ)の遠い祖先である天細女命(アメノウズメ・ノ・ミコト)のセクシーダンスが始まります。

 八百万の神々は笑い騒ぎ、祭は最高潮。そして、(以下、省略)。


 つまり、藤原氏(中臣連)の祖先である天児屋命は天照大神の側近です。


 そして、天孫降臨に話は飛びます。


 天照大神は、最初は、天忍穂耳尊(アメノ・オシホミミ・ノ・ミコト)を地上に降ろそうとした。

「天忍穂耳尊よ、この鏡を私・天照と思いなさい。地上の宮殿には、この鏡を祀りなさい」と言いました、そして、天児屋命(藤原氏の祖先)と太玉命(忌部氏の祖先)に対して、「二柱は、宮殿にいて、この鏡と天忍穂耳尊を守りなさい」と命じた。

 天忍穂耳尊が地上に降りようとしていた時(まだ天に居る時)、ニニギが生まれた。それで、天忍穂耳尊の代わりに、ニニギを地上に降ろすことになった。天児屋命、太玉命およびその他の神々を同伴させた。


 慈円の『愚管抄』第7巻を読むと、天照大神と天児屋命(藤原氏の祖先)の契約が最重要と意識されている。つまり、天照大神の子孫である天皇を、天児屋命の子孫である藤原氏は、絶対的に後見しなければならない、というものである。


 朝廷との血縁関係で築かれた藤原北家の摂関独占は、藤原道長によって確立されたが。慈円の頃には、慈円一人が、『日本書紀』の「天照・天皇―天児屋・藤原」を意識したのではなく、権力周辺では当然視されていた。


 慈円の親族には、摂政・関白、皇后がいっぱい、という環境であった。


 余談ながら、実は天忍穂耳尊は天照大神の子ではない。スサノウの子である。それが、天照大神の養子になったのである。おもしろいですねぇ~、血統からすれば、「天照→天皇」ではなく、「スサノウ→天皇」なのである。